trans-(Eidos/Hyle)


  「transfer」(移す)/「transform」(変化させる)/「translate」(訳す)/「transmit」(伝える)/「transport」(輸送する)など、「trans」を語根とする語は、それぞれ様々な「変化」の様相を表す。これは、物体の移動や変容だけでなく、思考や思念あるいは言語そのものなど、物質ではないものにまつわる変化を指す場合も多い。その中でも、たとえば「ことば」を例にとると、日本語から英語など多種の言語への変換(=翻訳)や、電話による音声としてのことばの送信、書籍などの紙媒体やファクシミリなどの電気信号、インターネット等のデジタル信号への変換をはじめとして、それは、思念という非物質から文字としての物質へ、もしくは別の形態の非物質へと変容を遂げるが、さらにコンピューターで扱われる「テキスト」としてのことばに限定して話を進めると、意識の中の思考が生んだ「ことば」が他者に伝えられるための過程は特異で、そこには、概念や人の思念が物質となる道筋が視覚化される様を見て取ることができる。
 
 ところで、コンピューターで扱われる情報が「0」と「1」という二進法をもとにしたデジタル・データで構成されていることは一般的にも知られているが、テキストや映像といったメディアを問わず、いったんデジタル・データとなることで物質としての性質を完全に失った各種の情報は、ディスプレイに表示されることや紙にプリントされて再び物質としてのかたちを表し、人に享受される存在となる。そうしたコンピューターにおける情報の在り方の中で、その存在をとりわけ特異なものとしているのは、デジタル・データがインターネットあるいはMOやCDディスクなどの外部メディアを通じて、一切劣化することなく送信や複製されるという点ではなかろうか。
 
 たとえば、「私」がある文章をインターネットを使って他者に送るとすると、デジタル・データとなって「私」の側のディスプレイ上に表示された文章は、メールソフトやワープロソフトによって瞬時に相手側に送られ、最後には再びテキストとなって他者のコンピューターのディスプレイ上に表示されるが、テキスト送信に際して視えない存在となった「私」のことばは、他者に読み取ってもらおうという意志によって視覚化され、再び解読可能な文字となって現れることになる。そして、不可視への解体と可視への再生というこの二つの作用の中で人の意識が生んだ「ことば」が変容を遂げてゆく過程においては、実際の物体にまつわるものとは全く性質の異なる、デジタル上での仮想の「質量」が介在し、スキャンなどでモノがデジタル化される、もしくはデジタル・データが印刷等によって物質化される際には、実在のものと仮想のものという異なる二つの「質量」への移行がそれぞれ行われる。しかし、そうした「質量」の差異はあくまでも不可視のものであるがゆえに、視覚的にはデジタルの領域を通過しても全く同一の状態が再生されるといった、モノの固有性の保持がなされると考えられるのだ。
 
 ここまで、デジタル・データにおけることば(=概念)あるいはモノ(=物質)の在り方とその変容についてみてきたが、安藤順健と森村誠によって行われる『trans-(Eidos/Hyle)』は、デジタルの領域と現実の中でやり取りされるモノの在り方の差異やその変容を、造形という第三のかたちで表そうとする試みである。彼らは、この展覧会のテーマを「デジタル情報の形相と質量」ということばで言い表しており、デジタル・データが可視のかたちとなる際に帯びるであろう物質性を露わにすることを念頭に置いて二人がインターネットでやり取りをした結果、そのデータが物質性をまとうにいたった姿が、一種のコラボレーションとして提示される。
 
 ここで二人を簡単に紹介しよう。安藤順健は、ある文献から抜粋した既成のテキストやイメージをプロジェクターによって映像として空間に投影した作品や、同様に既成のテキストをワードプロセッサーによって紙に印字した後の、テキスト部分がそぎ落とされたインクリボンをもとにした作品など、あるモノが本来持つ意味を、メディアの変換等を通して別のかたちに置き換えて表すような表現を行ってきた。
 たとえば須田亮と行ったコラボレーションでは、大岡昇平やサミュエル・ベケットの文章をもとにしたテキストを映し出すプロジェクターの光によって空間がつくり出されたが、そこでは、ことばが光に変換されてイメージとなることで、ある人物の思考の表明という本質とは異なる別の意味が、一種の物質性を伴って表され、また、インクリボンを使った作品では、元のテキストの痕跡を残しながらも解読できない文章では、本来の意味性が失われている分、そこにまつわる物質性はより強調され、それは、「概念」という目に視えない存在が現実の中でかたちを得る道筋を象徴しているようにも思われるのだ。
 
 一方、森村誠は、作品が観客に対して攻撃的に働きかけるイメージを持って、「ねずみ取り」に彩色したり顔の造作を描き入れたものを並べたインスタレーション作品や、使用済みの切手を折り紙のように折って小さな紙飛行機のかたちにした作品など、既成のモノをもとにしながらも、その意味を全く異なる存在に上書きすることで新たな意味を伴う存在をつくるような作品を、他者との関わりをテーマに加えつつ制作するほか、海外の辞書やペーパーバッグなどに印字された文字やテキストを、ページ中の特定のアルファベットに白の修正液を塗って覆い隠すなどして、記された文章さらには書物固有の意味を解体させ、モノの意味のそうした変容をもって、モノとそこにまつわる概念との関係を問い直すような作品を制作している。
 また彼は、ある画像をコンピューターのワープロソフトで強引にテキスト・データに変換させようとする際に否応なく起こる「文字化け」をもとに、誰もが解読できないという共通性をもって「世界共通言語」をつくり出そうとした作品を発表しているが、これも、概念の変容が新たな意味を担った末のものとしてとらえることができ、今回行われる『trans-(Eidos/Hyle)』のテーマが含むデジタル情報における概念と物質性との関係性の探求も、森村によるこの「文字化け」の表現が一つの発端となっている。
 
 それぞれ、モノを成り立たせる概念と物質性との関わりに着目し、本来の意味を変容あるいは解体させることで新たな意味を確立しようとする二人が、インターネットでつながれたコンピューターを使い、互いが住む東京と大阪に分かれて、画像やテキストの相互の交換によって制作した作品をもとに開催されるこの展覧会では、それぞれモノ本来の意味の解体を目指すゆえに、そうしたやり取りを通して「変容」の進度および振幅は倍加し、さらに二人の思惑のズレも重なって、思いもしなかったようなイメージの形態が生み出される可能性を多分に孕んでいるといえる。そして、そうした新たなイメージがかたちとなった作品と相対することで、私たちは、人の生んだ概念が現実の中に現れる際に帯びる質量(=物質性)の存在を目の当たりにすると共に、自己の意識の中の思念がモノとなって空間に立ち上がる姿を、しばし想像するのである。


篠原誠司

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